スノーボード界のレジェンドたち

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当初、日本でのスノーボードの流行は、未来のウィンタースポーツの主役になるとは予想されていなかった。 この見解は、日本だけでなく、世界中で同じだった。 その時代、スキーヤーがゲレンデを主導していた。

1990年代初めにスノーボードが徐々に注目され始めた際、スノーボーダーは多くの場所で受け入れられていなかった。 多くのスキー場は、スキーヤーの需要を中心に運営されており、スノーボーダーはあまり歓迎されていなかった。

しかしながら、90年代初から中盤にかけてのスノーボードブームと、1998年の長野オリンピックでの正式採用により、風向きは変わった。 「ゲレンデでの迷惑者」から「ゲレンデの主役」へと、その地位が変わっていった。 現代では、スキー場にとってスノーボーダーは不可欠な存在となっており、アメリカの若者の多くはスキーよりもスノーボードに魅かれている。

このようなスノーボードの変遷を見てくると、多くのプロフェッショナルがその普及に貢献してきたことがわかる。 先駆者としてプロを名乗ったライダーたちは、生計を立てることが難しいと思われていたが、今や多くのプロフェッショナルライダーが大金を稼いでいる。

今回のDMK特集では、「スノーボード界に革命をもたらした10人のライダー」を独自の視点でピックアップして紹介します。

もちろん、評価は主観的なもので、私たちのリストが絶対ではないことは理解しています。しかし、この記事がスノーボード文化のさらなる議論のきっかけとなり、多くの功績を持つライダーが称賛されることを願っています。

 

テリー・キッドウェル Terry Kidwell:フリースタイルの第一人者

スノーボード界においてプロフェッショナルの概念がまだ固まっていなかった初期、ジェイク・バートンとトム・シムスが主役として舞台に立っていた。 彼らはスノーボード選手としての側面も持ちながら、特にメーカーとしての偉業を築き上げてきた。 そして、プロのライダーとしての役割は、後に現れるテリー・キッドウェルが担うこととなる。

スノーボード競技のルーツはスキー競技にあったが、80年代は主にレースの時代として語られることが多かった。 しかしその中で、ジェイク・バートン主導のレース志向に対抗して、フリースタイルを重視するトム・シムスが立ち上がった。

シムスの立場は、単なるバートンの追随者ではなく、スノーボード界の先駆者としての地位を築いていた。 そして、テリー・キッドウェルは、シムスが提唱したフリースタイル競技、ハーフパイプの第一人者として、初の世界チャンピオンとなった選手であり、初代ハーフパイプの王としての地位を築いた。

テリー・キッドウェルは、フリースタイルの技術を革命的に進化させたライダーとして知られ、メソッドエアーや様々なグラブトリック、ハンドプラントなど、多くのトリックの基礎を築いた。

彼の1986年のパフォーマンスの衝撃は、今日の高度な3Dトリックと同じくらい、もしくはそれ以上の影響を持っていた。 テリー・キッドウェルのフリースタイルの技術は、当時のスノーボーダーたちを驚愕させた。

スノーボードがフリーライディングから、スケートボードに似たフリースタイルのツールとして多くの人々に受け入れられるようになったのは、彼の貢献が大きい。 テリー・キッドウェルは、スノーボードが世界的に認知される前の1980年代に、その基盤を築く役割を果たしたライダーである。

クレイグ・ケリー Craig Kelly:スノーボードの神様と呼ばれた男

クレイグ・ケリーはスノーボード界の伝説として知られている。彼の華麗なスタイルは多くの人々の心を捉え、ある者は「彼のスタイルは、まるでバインディングなしで滑っているかのよう」と評価した。

彼のキャリアは1980年代後半に花開き、当時の大会で彼の技術とスタイルが一世を風靡した。特に1989年にシムスからバートンへの移籍は彼の活躍のステージを大きく広げた。

バートン入り後、彼は様々な大会でその力を証明。当時の主要な大会の多くで彼の圧倒的な強さが示されていた。特にデュアルスラロームやジャイアントスラロームでは、クレイグが非伝統的なソフトブーツとフリースタイルボードで挑戦したことは特筆すべきであった。当時の多くのライダーが硬いブーツを好んだ中、クレイグはソフトブーツを選ぶことで独自のスタイルを築き上げた。

彼はハーフパイプでの競技でもほとんど無敵の存在で、多くのライダーが彼のスタイルを真似するほどであった。しかしその道のりはいつも順調だったわけではなく、ジェフ・ブラッシーやショーン・パーマーとの競技では苦しい結果もあった。

しかし、彼が主役としての位置を守り続けたのは大会だけではなかった。当時、プロとしての価値を認められるためには大会での成果が求められていたが、クレイグはビデオ出演によるアピールの重要性をいち早く認識。彼が映像でのプロ活動を開始したことで、現在の映像中心のスノーボードプロ文化の礎が築かれた。

さらに彼は、自分が出演するビデオの出演時間に応じた報酬、そして雑誌の掲載ページ数に応じた報酬を要求し、これが業界初のインセンティブ制度となった。また、シグネチャーボードの制作や、その売上に応じた報酬を得るシステムも彼が始めたものである。

クレイグの業績はスノーボード界において数々の革命をもたらした。彼の影響は今もなお色褪せることがない。2003年、彼はカナダのレベルストークでの雪崩事故で亡くなったが、彼の遺したものはスノーボード界における伝説として、これからも多くの人々に語り継がれることだろう。

ノア・サラスネック Noah Salasnek:スケートボードのスタイルを取り入れた先駆者

スノーボードの歴史は、さまざまなアクションスポーツの特性を吸収して進化してきた。以前の大会では、スキーからの影響を受けたダウンヒルやモーグルのような要素が取り入れられていた。80年代の終わり頃には、日本で先駆的なブランド、MOSSがスノーサーフィンという新しいスタイルを生み出し、それに関連するトリック名もサーフィンからの言葉を採用した。

しかし、最も影響力があったのはスケートボードだ。多くのトリックの名称や、今日のビデオでのパフォーマンスが、スケートボード文化によって形成されている。その中でも、スケートボードのスタイルをスノーボードに持ち込んだ第一人者は、ノア・サラスネックだった。

ノアは、スノーボードとスケートの両方の技術をビデオで示す初めてのライダーだった。もちろん、彼の前にもスケートの影響を受けたライダーはいたが、彼ほどスケートのエッセンスを持っているライダーはいなかった。彼の背後には、彼自身がもともとプロのスケーターだったことがある。

子供の頃からスケートを始め、若干14歳でサポートを受け、15歳で全米に名前を知られるようになった。スノーボードとの出会い後、彼はスケーターらしいスタイルを持ち込み、多くのライダーから支持を受けた。

1990年のビデオ『New Kids on the Twock』では、ノアはその独自のスタイルを披露した。彼のトリックは高くはないが、独特の技術とスタイルを持っていた。一部の技術的な要素は、評価するのが難しかったが、多くのライダーからは高く評価された。

ノアの技術は、後のブライアン・イグチなどのライダーに影響を与えた。ノアの存在なしには、ジェイミー・リンやピーター・ライン、JPウォーカー、シモン・チェンバレンなどのライダーが現れなかったのかもしれない。

1990年初め、クレイグ・ケリーが競技から離れる中、スノーボード界は頂点に向かっていた。この頃、ノア・サラスネックのスタイルが「ニュースクール」というムーブメントの原点となったと感じられる。

ノア・サラスネックは、当時トップライダーとは言えなかったが、スノーボードの歴史を見ると彼の役割は非常に大きかった。伝説のライダーとして、彼は2017年に亡くなったが、彼の遺産は今も生き続けている。

テリエ・ハーコンセン Terje Hakonsen:スノーボード史上最も影響を与えたレジェンドの最高峰

1990年代初めの競技シーンは、スノーボードの歴史の中で特別な輝きを放っていた時期。 この時代は、メディアのスターとして活躍するライダーが少なく、大会の舞台で名声を築き、自らの実力を見せつけることが主流であった。

その時、国際スノーボード連盟(ISF)が全世界のスノーボード大会を統括し、このスポーツの価値と知名度を向上させていた。そして、その競技シーンで圧倒的な存在感を示していたのは、テリエ・ハーコンセンだ。

news130817h (1990年代初めに登場し、後のスノーボード界で最も注目されるプロ・ライダーとなった彼。)

16歳のテリエは、すでにその技量がBurtonの映像を通じて世界に知られる存在となっていた。

その頃の彼は、ハワイのビッグアイランドでその卓越した技を見せ、現代でいうところのグラウンドトリックを既に流麗に披露していた。

1992年には、クレイグ・ケリーの後を継ぐ形で、大会において一際目を引く存在となったテリエ。特に、当時最も権威のあるUS Openでの優勝は、93年や95年にも続いている。ハーフパイプの高さや技のスタイルで、彼は頭ひとつ抜け出していた。

テリエの卓越した技量は、90年代初めから継続的に主要な大会での活躍を通じて証明されている。

たとえば、伝説のライダーや有望な若手が集まるマウントベーカーのバンクドスラロームでは、95年から2012年の間で7回もの優勝を飾っている!

さらに、彼自身が立ち上げた国際大会Arctic Challenge(アークティックチャレンジ)において、2007年にはクォーターパイプでの9.8メートルの飛距離を記録。技を滑らかに仕上げるスキルが求められるパイプやクォーターパイプでの彼の飛び技は、他の追随を許さないものであった。

テリエの称賛は、単に大会での実績に限られるものではない。 彼が生み出したハーコンフリップや、早くから披露していたワンフット・マックツイストといった目を引くトリックが証明している。彼の特徴的なトゥイーク・エアー、右手を空高く振り上げるその姿は、現代のライダーたちにも尊敬されている。

テリエの実力は、大会の舞台だけでなく、映像作品においても際立っている。 バックカントリーで繰り広げられる彼のターンは、クレイクの後を継いで、非常に流麗でスピード感があり、連続的なジャンプやターンの組み合わせは観る者を魅了する。

彼のプロとしての能力を20年以上もの間、世界に示し続けることができるのは、テリエだけのことだろう。 彼は間違いなく、スノーボード界における最も影響力のあるレジェンドと言える。

しかし、テリエが歴史に名を刻んだ最も衝撃的な出来事は、1998年の長野オリンピックでのボイコットである。 IOCがスノーボード連盟ではなく、スキー連盟に選手選考を託したことに彼は反発し、オリンピックの国間競技の形式はスノーボードの精神に合わないと考えた。

その後、IOCの影響力に押され、スノーボード連盟は消えていった。しかしテリエは新たなツアー、TTRワールド・スノーボード・ツアーを設立。

現代のフリースタイル大会、特にハーフパイプやスロープスタイルでは、FISよりもTTR(現在のワールドスノー)がより高い実力の選手たちの舞台となっている。しかし、オリンピック直前には、選手たちはFISの大会でのポイントを追い求める。

五輪のハーフパイプ競技では、新しい世代の選手たちが最高の称号を争っている。

テリエの伝えたかったことは、オリンピックの大舞台に飲み込まれてしまったようだ。しかし、彼はどんな外圧にも屈せず、スノーボーダーの誇りを保持し続けた。 「スノーボーダーは自由であるべき」という彼のメッセージは、我々にとって忘れがたいものとなるだろう。

ジェイミー・リン Jamie Lynnwell:スノーボードをスタイリッシュにし最も熱狂させた時代のアイコン

かつて、布施忠と平岡暁史との飲み会で、私たちがスノーボードを始めた際に最も影響を受けたライダーについて話したことを覚えている。私はクレイグ・ケリーだと言った。私にとって、それは唯一無二の答えだった。しかし、彼らの答えはジェイミー・リンという同じ名前だった。

スノーボードは80年代後半に徐々に知られ始めたが、90年代初頭に真のブームとなった。80年代はスノーボードの火花が散っていた時代で、90年代がその火が本格的に燃え上がった時期と言える。その熱狂の中心には、ジェイミー・リンという名前があった。今日、30代後半から40代の経験豊富なスノーボーダーの多くは、ジェイミーに心奪われたと言う。彼は当時、スノーボードのカリスマだったからだ。

1991年、ウィスラーでのWestbeachクラッシック大会で、私は彼のパフォーマンスを目撃した。優勝者はケビン・ヤングで、ジェイミーは3位だったが、彼の圧倒的なインパクトを覚えている。彼は手袋なしで滑ったのだ。当時は珍しい姿だった。

彼のスタイルはユニークで、スケートボードの動きに似ていたが、彼の動きは独自のものだった。ジェイミーはその後、数多くのビデオでそのスタイルを披露し、多くのスノーボーダーが彼のファンになった。

彼のメソッドエアーは特に有名で、空中でのポーズや動きはその時代の最高のトリックと称された。また、ノーグラブスタイルも彼に影響されたと言われている。

彼がスノーボード界に登場したことで、ビデオというメディアが一般的になったと言われている。彼の映像はゲレンデ内が中心だったが、ストリートスタイルの影響も感じられる。

また、ジェイミーはアーティストとしても成功しており、自らデザインしたボードをリリースしている。音楽の分野でも彼は才能を発揮している。彼の影響は今も色濃く残り、多くのファンが彼との写真を撮りたいと思っている。彼は真のアイコンとしての地位を築いている。

ピーター・ライン Peter line:マニアックなスノーボードというスポーツを一躍メジャー化させた男

スノーボードの持つサブカルチャーの魅力を主流の舞台で輝かせた!

実際のところは不明だが、かつて、ピーター・ラインがいじめの対象だったとの噂がある。控えめで身長の低いピーターは、学校では一味違った存在だったのかもしれない。だが、ボードに乗ると、彼は生き生きと動き、スノーボードの新たな領域を開拓した。

大舞台の継承者としては、クレイグ・ケリー、テリエ・ハーコンセン、そしてショーン・ホワイトの系列であり、サブカルチャー的な視点からは、ジェイミー・リン、そしてここで取り上げるピーター・ライン、その後のJPウォーカー、ジェレミー・ジョーンズが続く流れで、映像が主流となる現代へと繋がっている。

ジェイミーの時代にはすでにスターとして名を馳せていた。その勢いを更に増したのがピーター・ラインだった。ジェイミーは一部の大会にも参加していたが、ピーターの活動の中心は映像制作で、大会の参加は少なかった。

ピーター・ラインはForumを設立。JPウォーカー、ジェレミー・ジョーンズらと共に、フォーラムの8人組を形成。

当初、ピーターはDivision 23の一員で、このブランドは日本のハロルド・ミヤモト氏のアイデアから生まれたと言われている。

ピーターが手がけたForumは、ブランドとしての影響力が絶大だった。

Forumの革新的なアイディアは、スタンスの調整を容易にするシステムを導入し、現在、バートンもそのシステムを採用している。

ビデオ制作が盛んだった時代、映像制作会社マックダウと共に、ピーター・ラインやForumのライダーたちは脚光を浴びた。バートンに次ぐ影響力を持つブランドとして知られるようになった。

ピーターに関するもう一つのエピソードとして、彼が斜め回転のトリックの先駆者であったことが挙げられる。しかし、その起源については議論がある。ケビン・ヤングによれば、彼が先にそのトリックを編み出したと言う。

真実は不明だが、ピーターがそのトリックを一般に広めたことは間違いない。ビデオスターとしての地位が確立されたことは、彼の功績と言える。つまり、スノーボード界のサブカルチャーの魅力を、主流の舞台で輝かせた功労者である。

JPウォーカー JP Walker:スノーボード・ビデオ全盛期のカリスマ

ジェイミー・リンがスノーボードの魅力を前面に押し出したことで、続いて舞台に登場したピーター・ラインは、映像の中でさらなるスタイルを展開。その後、JPウォーカーがその役割を引き継いだと感じられる。

ジェレミー・ジョーンズは、JPと同世代でスケート風のスタイルで存在感を放っていたが、JPのカリスマ性や影響はさらに大きかったのではないか。

ジェレミーやシモン・チェンバレンといったライダーの存在が後継者たるジョー・セクストンや現代のストリート系スターの登場をもたらした。だが、ジェイミー・リン、ピーター・ライン、JPウォーカーという流れを無視することはできない。

JPウォーカーは、ジビングを主軸としたセッション型のジブ大会、ニクソン・ジブ・フェスタの開催者。そして、彼は多くのジブ映像を公開してきた。

初めてJPが目立ち始めた時、彼は多様なスタイルでスノーボード界に影響を与え、不動の地位を築き上げた。そしてジェレミー・ジョーンズのスケート風のスタイルや、デヴァン・ウォルッシュの華麗なバックカントリー・ライディングも人々の心を掴んだ。これらのライダーの活躍により、フォーラム8の人気が急上昇した。

JPの17の映像作品は、永遠の金字塔となるだろう。

特にJPが主役を飾った、マックダウの11年間のシリーズは、スノーボード映像の名作として多くのファンに愛されている。

VHSからDVDへの移行期、JPは常に主要キャストとして映像に登場し続けた。

多くの大御所ライダーが時代の変化に追いつけずに引退していく中で、JPは常にトップの座を維持。彼の進化への姿勢は、2009年のマックダウからStepchildのチームビデオで全編をスイッチで撮影したことなど、その象徴である。年齢を重ねる中でも挑戦を続ける彼の姿勢には、深く敬意を感じる。

ショーン・ホワイト Shaun White:スノーボード史上最も稼いだ男

90年代、トレバー・アンドリューが年収2千万円と言われた時、スノーボード界でも高額な報酬が得られると驚いたが、ショーン・ホワイトの年収はさらに衝撃的。彼の収入は10億円とも囁かれている。 かつて彼はアメリカの巨大小売店ターゲットのスポンサーを持ち、ゲームキャラクターとしても登場。その頃の彼の推定年収は10億円との声が多かった。

この10億円の収入は、トップの野球選手やサッカー選手に匹敵。年収10億円を超える日本のアスリートは数少ない。

現在、ショーンは競技者としてだけでなく、Air+Styleのイベントオーナーやマンモスマウンテン、スノーサミット、ベアーマウンテンのオーナーとしても活動している。彼の現在の収入は不明だが、さらに増加しているかもしれない。

ショーン・ホワイトのように億を稼ぐプロ・ライダーも他に存在するが、彼の成果は別格である。彼の存在が、スノーボードプロが億万長者となれる土壌を築いたと言える。

多くの人々が認識しているショーン・ホワイトのキャリアを再評価すると、1986年生まれの彼は現在30歳。早い段階から才能を示し、13歳でバートンとの契約を獲得。多くの国際大会でのメダルやオリンピックでの活躍が彼のキャリアを飾っている。その実績は、彼が長年にわたり、ハーフパイプの頂点に立っていたことを示している。

ショーンはソチオリンピック以降、ハーフパイプに特化して活動。彼のライバルとしてはロス・パワーズやアンティ・アウティなどが名前を連ねるが、彼らが競技を引退する中、ショーンは北京オリンピックまで続けた。

年齢を重ねても、彼は若手選手たちと競り合いながらも頂点を争い続けた。彼のキャリアはスノーボーダーだけでなく、スケーターやプロモーター、ミュージシャンとしても成功を収めている。

2022年の北京オリンピックを最後に彼は競技生活を終了。彼の後を継ぐ新星、平野歩夢が金メダルを獲得した。今後ショーンは、新しいスノーボードブランド、WHITESPACEを通じて業界に貢献していくだろう。

トラビス・ライス Travis Rice:スノーボード・ビデオを鑑賞として楽しめるレベルまで引き上げた立役者

過去に多数のビデオ・パートを手中に収め、X-GamesやX-Rail Jam東京ドームでの素晴らしいパフォーマンスを披露した。

トラビス・ライスも、多くのプロスノーボーダーがたどる「コンペティションからビデオ・パートへ」の流れに従ってきた。しかし、彼が他の人たちと異なる部分は、映画のようなクオリティのスノーボード映像を世に送り出した点である。

職業上、全世界のスノーボーダーたちとの交流があり、彼らに「知っているプロスノーボーダーは?」と問うと、ショーン・ホワイトの名前が最初に挙がり、次いでトラビス・ライスの名前が出る。それほど、トラビスはスノーボード愛好者の間で知名度が高い。

とはいえ、多くのファンは、彼が以前は競技者だったことを知らない。

ジャクソンホールで成長したトラビスは、一見するとどこにでもいるスノーボード愛好者の少年。しかし、彼はジャクソンホールの雪の魅力に取り憑かれ、プロスノーボーダーを目指し始めた。その地の雪の特性が彼の現在のスタイルに大きく影響していると言えるだろう。

彼の名を一躍有名にしたのは、2001年の出来事だった。SUPERPARKでのあるジャンプは、彼のキャリアのターニングポイントとなった。

このイベントを通じて、トラビスは名高いアブセンス・フィルムとの契約を結び、さらなる知名度を獲得。その後も、彼は映像作品とコンペティションの両方でその才能を発揮し続けた。

彼の名前がスノーボードの歴史に名を刻んだのは、従来のスノーボード映像とは一線を画す映画のような作品を生み出したからだ。特に「That’s It, That’s All」や「The Art of Flight」は、その代表作として挙げられる。

その背景には、彼がその時代のトップライダーだったことが挙げられる。

真のトップスノーボーダーとは、ある分野だけでなく、様々な場での実力を持つ者を指す。トラビスはその定義にぴったりと合う存在で、そのため彼は多くの高クオリティ作品に主演として起用され続けてきた。

さらに彼の功績として、SUPERNATURALやNATURAL SELECTIONなどのイベントを主催し、その中でも彼がトップの成績を収めていることを忘れてはならない。彼は今でもその実力を衰えさせることなく発揮している。

トースタイン・ホグモ Torstein Horgmo:トリプルコークの時代はこの男からはじまった

正直、2000年以降のライダーを選ぶのは複雑である。たくさんの才能溢れるライダーが登場し、新しい動向を作っている一方、スノーボードの歴史と比較して、彼らの影響は限定的である。ライダーが上達しすぎたため、彼らの特異性が弱まっているように感じる。彼らが過去にタイムスリップすると、確実に注目を浴びていただろう。

現在のスノーボード業界では、特定の際立ったライダーを見つけるのは難しい。多くのプロライダーは自己価値を見失い、オリンピックでの成功が最も目立つ選択となっている。

今のスノーボードのトップレベルは、専門家だけが完全に理解するマニアックな世界である。

映像制作においてムービークオリティを持つトラビス・ライスは、その影響力により取り上げた。次に取り上げるライダーとしてトースタイン・ホグモを選択した。

トースタインは、現代の高度なトリックの先駆者であり、昔の有料映像から無料動画の時代へと変わる中で、一貫してトップライダーとして活動している。彼はこの変化の中で重要な役割を果たしている。

ホルダー・ヘルガソンもトースタインと同じようなキャリアを歩んできたが、時代の移り変わりにおける影響では、トースタインが少し上であると感じる。

2007年の夏、トースタインと初めて出会ったのはブラッコムグレーシアのCamp Of Championだった。彼はその時、非常に注目を浴びるライダーであり、ジャンプやジブの技においても非常に優れていた。

21歳のトースタインはその時点ですでに国際大会に名を連ねていたが、まだ全く知られていなかった。

彼の熱意は、スノーボードへの情熱に溢れていた。彼は常にベストを尽くし、スノーボード界での名声を追い求めていた。

彼のキャリアのハイライトは、2010年にトリプルコーク1440を成功させ、その映像を公開したことだろう。

最近では、多くの新しいトリックの映像が公開されているが、この「新トリックを公開する」スタイルを始めたのはトースタインだった。

彼の影響は、若手ライダーたちにとって非常に大きい。彼らはトースタインを見て、可能性を感じ、さらにスノーボードの進化を加速させている。

角野友基もまた、スノーボード界での偉大な存在として名を刻んでいる。

トースタインは、彼の行動と態度で、多くのライダーに影響を与え続けている。彼の謙虚さとクールさは、スノーボードの歴史において忘れられないものである。

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